Workers for Peace

ニコル・ゴードンさんのメッセージ

ベアテさんを偲ぶ会」での娘さんのニコルさんのスピーチ(於・東京3月30日)

皆様、こんにちは
御紹介ありがとうございます。主催者のかたがた、この感動的なを偲ぶ会を催して下さったことに深く感謝しています。観客の方々、ベアテの友人の方々、ここに集って下さってありがとうございます。

ベアテの孫 ララとサム そして私の夫、ロジャーと私、これはこの会場にいる家族です。そしてニューヨークにいる私の弟、ジョフェリーと私の娘、ダニエラ、この家族皆の気持ちを代表してお礼を言います。ベアテの生前そして亡き後も、母を深く愛してくださってありがとうございます。 ベアテは国籍に縛られない真の国際人でしたが、母の心はいつも日本と日本の皆様とともにありました。

死に至る直前まで、ベアテがいかに日本の皆様を思い、力を尽くしたかをお話します。
ご存知のように日本で育った母は、22歳という若さで、日本憲法を作るという大事に関与する、驚くべき機会に恵まれました。

日本の言語、文化、人びとについてそこで育った者にしかわからないような深い理解があった母は 適時にいる適材でした。
母は日本憲法にいろいろなかたちで貢献しました。

第一に女性の権利と, 人権、そして学問の自由の草稿をかきました。

第二に、東京をよく知り、またこの仕事の意義を考えた母だからこそできた事なのですが、母は各国の憲法を集めました。母だけでなく草稿を書くスタッフがそれらを参考にしました。

第三に、母は日本政府とアメリカ側が憲法の最終稿を交渉する席上での通訳でした。母は<その部屋でたった独りの女性>でした、これが英語版の母の伝記の題名になりました。

第四に、憲法の制作の過程が秘密でなくなってからは、母は飽く事なく日本憲法を擁護しました。
30年以上の間、ベアテは自分の役割について公には話しませんでした。 極秘事項でしたし、当時の自分が若く、弁護士の資格も持たない女性だったことで憲法に傷がついてはいけないと恐れたからでした。私は、いま58歳で、弁護士です。プロとして、また娘として大きなプライドをもってこう言います。約40年の専門的な経験をへた今でも、私には母のような素晴らしい仕事はできませんでした。母は法律の学位以上の大切なものを持っていました。それは日本を深く知り、愛し、日本に必要な事を正確に表現できる経験と感性です。

1940年代後半から1990年代前半まで、アメリカでの母は仕事をもっていました。アジア協会と日本協会の職で、主に舞台芸術の紹介を通じて文化交流を促進することに懸命でした。たくさんのグループを日本とアジアから呼び、アメリカを巡演させました。いろいろな国の人間がお互いを深く知りあうことで、平和を求め続ける文化がうまれるというのが母の信条でした。母はジョフェリーと私にリハーサルで演目の時間を計らせたり、テープレコーダを操作させたり、プログラムを作る手伝いをさせたりしました。私たちは母の企画した公演はほとんど全部観にいきました。それ故か、私の弟は劇作家、かつ役者になりました。

淡路人形浄瑠璃、神楽、舞楽、などの伝統芸能から、花柳寿々紫、大野一雄、エイコとコマ、 佐藤聡明などの現代アートまで, 母がプロデュースした幅広い舞台芸術を見て、深い影響を受けた人々がアメリカにはたくさんいます。 母はとても心がオ?プンで、どんなスタイルの芸術でも、どんな種類の芸術でも、それがホンモノで一級のものである限り、敬愛しました。 流 政之、 丹下健三、草間弥生、オノヨーコなど日本の有名なアーチスト達とも仕事をしました。母がオノヨーコさんに頼んで、ビ?トルズの録音中のスタジオに私たち姉妹を入れてくれた事があります。それは私たちの人生で最高の日でした。 また母は棟方志功さんとは大の親友でした。

仕事に熱心なベアテにとって退職はつらいことでした。しかし幸運なことにちょうど其の頃、母の憲法への関わりが日本で広く知られるようになりました。

こうして退職の後、急に、愛する日本を頻繁に訪れる新しいキャリアが母に始まったのです。これは母にとって新しい人生ともいうべきもので、母は日本にとって大事な事にまた関われるのをとても喜んでいました。多くの方に乞われて日本憲法制定の歴史について講演し、憲法の、特に女性の権利、人権と平和の条項を守るように熱心に訴えました。講演の観客が多ければ多いほど、母は嬉しがりました。日本語と英語で本が出版され、母についてのドキュメンタリ?ができ、芝居ができました。こうして人前にでる一つひとつの機会を母は喜びました。

母はたいへん社交的な人でアーチスト、活動家、学者などと話すのが大好きでした。父にいつも何時頃帰ると言って自宅を出るのですが、会話から身を引く事ができないので、帰宅はいつも予定より1、2時間遅れました。 その事を父は いつも怒っていました。

母は1年ほど前に病気になりました。しかし親しい友人にも病気のことは話しませんでした。かつてGHQの通訳部長、ジョセフゴードン中尉だった父を看病している間、母は気丈でした。父と母が1945年に出会ったのは、ここ東京の第一生命ビルでした。その父は、2012年8月29日に、93歳で自宅で亡くなりました。ほぼ4ヶ月後の12月30日に母は膵臓がんでやはり自宅で亡くなりました。

12月の初め、朝日新聞から日本の憲法についてのインタビューの依頼がありました。初めはいつというはっきりした指定なしの依頼でしたが、ベアテは憲法を変えたいという動きが日本にあることに敏感でした。母は勿論、平和憲法は変えるべきものではなく、他の国の憲法の模範である、と思っていました。そして母は自分が死につつある事を知っていました。それゆえにこの機会に、広い読者にメッセージがしっかり伝わる新聞紙上で、日本の憲法を支持するという考えを、自分の最後の強い意見として言う決意をしたのです。

母はこの時点で、もう誰とも会わず、電話ですら人と話す事はありませんでした。あれほど電話が好きでしたのに。しかしこのインタビューを電話で受ける事にし、もし必要なら、私が聞き取りで書いたものをEメールで送って補足することにしました。
母は新聞社からの二つの質問への答えを口述で私に書き取らせ、それを電話で記者に読めるようにしました。それはもし弱りすぎていて自分で答えられない時のための用意です。其の夜、タイプ、印刷した文章を母に渡しました。翌朝母がベッドに横になってそれを推敲しているのを見て、私は驚きました。ベッドから出られず日々弱くなっていく母を見ていたので、その時期に母にこんな力が残っているとは思えなかったからです。

もう何日もベッドから起き上がれなかったのに、火曜日の朝私が行くと、母は洋服を着替えてすわってインタビューを待っていました。しかし残念な事にこれは日付の間違いで実際のインタビューは木曜日だったのです。
恐れていたとおり、木曜日には母はもう起き上がろうともしませんでした。インタビューは午後に予定されていたのですが、母は私に、朝のうちに新聞社に電話してくれるよう頼みました。それは体力が落ちて、話せなくなるのでは、という危惧からでした。母は最後の力を振り絞って、日本憲法を守るためにもう一度、とインタビューに臨んだのです。ベアテは日本で平和のために活動している方達を力づけたいと望んでいました。
そして10日後に母は亡くなりました。

日本憲法によって日本人を守るために、自分はできるだけの事をした、と自覚しながら母は死んでいきました。彼女の最後の仕事はこうして終わったのです。

世界中の新聞やインターネットは、母の死亡を報道し、また母がどのように日本憲法に関わったか、について伝えました。日本では母の死後だけでも100以上の記事がでました。自分が死んだ後も日本憲法を守る役に立てて、母もさぞ嬉しいだろうと思います。想像を超えるような反響でしたが、これこそが母の望むものでした。全く弟がいつも言っていたことですが、ベアテはいつも人の予想を超えた働きをするのです。

アメリカ国会内で議員たちがイラクとアフガニスタンの憲法について諮問会を行った時、母が招かれ、女性の平等な権利をこれらの国でどのように扱うべきかという問題について話すよう求められました。母はそれらの国で新しい憲法草案を書く人々は、女性の権利が憲法で保証されるということがどのような意味を持ち、どのように人々の生活を変える力になりうるかについて、日本の女性達に意見を聞くべきだ、と証言しました。

みなさま、母の遺志と残したものを大事にして下さり、ありがとうございます。日本の人々が世代を超えて長い間日本憲法を守っていけるように、皆様は、きっとこれからも若い人たちに日本の歴史と、日本の女性の歴史を伝えて下さるでしょう。
母の思い出をどのように讃え、記念するかについて弟と相談し、お花などを送って下さる代わりに九条の会に平和のために献金して下さるよう、皆様にお願いする事に決めました。

私はベアテの灰を一部、日本に持ってきました。生前、母の心と精神がいつもそうであったように、母の一部は日本に、富士山の見えるところに眠ります。

Arigatou gozaimashita. (ありがとうございました)

(編集部から:本文の中にもありますように、ニコルさんはベアテ・シロタ・ゴードンさんが亡くなられたとき、ベアテさんの思い出をどのように讃え、記念するかを弟さんと相談され、お花などを送って下さる代わりに「九条の会」に平和のために献金して下さるよう、皆様にお願いする事を決めてくださいました。その結果、すでに本メルマガでもご報告しましたように、たくさんの方々から九条の会に寄金が寄せられました。編集部は心からの感謝の意を込めて、ニコルさんのご了解を頂き、挨拶全文を掲載します。翻訳はベアテさんの友人で在米の尾竹永子さんです)

以上、9条の会からの掲載許可をいただいて掲載しています。